ライチウス会の沿革

ライチウス会の沿革

創立の経緯

慶應義塾大学ライチウス会(当時は「慶應義塾ライチウス会」と称する。)は慶應大学文化団体連盟(文連)の加盟団体として、1930年(昭和5年)4月に発足しました。

ライチウス会創立の中心的な役割を担ったが中島守信氏(1934年〈昭和9年卒〉)です。当時、慶應YMCAに所属していた中島氏は1929年(昭和4年)春、禁酒連盟の永田基氏から学生の禁酒団体を塾に設立するよう勧められましたが、慶應YMCAとして排酒活動を行うのは困難であるとしてその要請は断りました。しかし、塾を禁酒運動の必要がない学園にしたいという思いから、福澤先生の「慶應義塾は単に一所の学塾として自ら甘んずるを得ず、その目的はわが国気品の泉源、知徳の模範たらんことを期し、・・・これを口にいうのみならず、躬行実践もって全社会の先覚者たらんことを期するものなり」という教えを基として、気品の泉源と実践躬行の新しい団体をつくることを決意しました。以後、米国のキリスト教の宣教師として来日し三田綱町グランド横に居住していたT.D.ウォルサー氏に相談するとともに、塾の先輩や教授、禁酒同盟の関係者等の助言や協力も得て、新団体の設立準備にあたりました。

会の名称の由来と創立精神

会の名称である「ライチウス」(Raittius)はフィンランド語で、英語のFreshまたはPureなどを意味し、清らかな水、酩酊しない飲みものというように、すべて清く、正しく、明るいことを表す言葉です。当時、日本の禁酒運動のリーダーだった小塩完次氏が「婦人之友」誌上に寄稿したフィンランドのライチウス運動を紹介した一文(1899年のフィンランド独立前に「何とか自由と独立を獲得したい」と興国運動に励んでいた国民、特に青年の合言葉が「ライチウス」であった〈趣意〉)にふれた中島氏は「われわれの学生生活をライチウスならしめ、われわれの学園をライチウスならしめ、われわれの社会をライチウスならしめる」、これこそ創立者たちの気持ちにぴったり合った内容であることから、新団体に「ライチウス会」という名をつけ、その新運動をライチウス運動と称することになりました。そして、「全塾生がライチウスな生活を営み、塾をしてライチウスな学園たらしめ、進んでは社会をライチウスならしめるよう躬行実践する」ことがライチウス会創立の目的・使命とされた。この目的達成のために、学園や社会への奉仕がライチウスの根本精神となり、この精神を修得実践することが会の主な内容とされました。 

活動の推移(概略)

かくして、1930(昭和5)年4月、「慶應義塾ライチウス会は気品の泉源である慶應義塾にふさわしい清純健全学園生活の樹立を目指す同志の集いである。奉仕の精神の涵養と実践、余暇の善用を志す塾生諸兄の入会を待つ」との趣意をビラや立看板でPRして会員の募集を開始し、その第一歩を踏み出しました。

創立当初の活動は創立の経緯もあり排酒(禁酒)運動が中心でしたが、禁煙運動にまで進展していきました。しかし、これだけでは部員獲得が困難ということで、これと平行して社会、経済問題研究グループ、宗教問題研究グループ、英会話グループ、音楽グループ、体育グループ、紙芝居や人形劇グループなどが設けられ、多彩な活動が始まりました。このうち、社会、宗教、英会話はT.D.ウォルサー氏の自宅を開放して行われました。(「オープンドア」活動と称されていました。)また、奉仕活動として砂町友愛園や興望館セツルメント訪問(慰問・ワークキャンプ)なども行われました。この他、学内の清浄化運動としてごみ拾いや教壇の机拭き・黒板消しに取り組んだという記録も残されています。

1951年(昭和26年)のライチウス会会報には千種先生を囲むケインズ経済研究会の開始やウォルサー氏後任のオルトマン先生自宅での英会話の様子が記載されています。このほか、戦後もワークキャンプは継続され、世田谷国立病院、ネバーフットセンター、埼玉県子どもの町等で行われました。1953年(昭和28年)にはライチウス会創設に関わったウォルサー氏の夫人が「平和と自由のための女性国際連盟」代表として来学し、三田演説館で「国連と平和」について講演されたあと、ライチウス会が歓迎会を催し、平和問題を親しく語ったと記されています。

「オープンドア」活動は戦後、形式を変えつつも奉仕活動と合わせて継続されていましたが、1963年に廃止となりました。以降、奉仕活動(現在のボランティア活動)がライチウス会の主たる活動となり、活動場所や活動内容等が変化しつつも継続され、今日に至っています。

今日まで60年余にわたり活動が続いている立川市の児童養護施設「至誠学園」とは、1952年(昭和27年)5月のライチウス会主催の子供の日行事に招待したことを契機に交流が始まりました。1950年代後半から1960年代前半(昭和30年代)には冷害や台風被害の義援金募金活動を行った記録が残っています。また、三田祭での発表企画として、1962年(昭和37年)には他に前例がなかった全国養護施設(現児童養護施設)実態調査を実施しその結果を発表しました。翌年には小冊子にまとめ、広く配布しました。1963年(昭和38年)には「ボランティア団体の実態調査」を全国社会福祉協議会、ボランティアビューロー、日赤、各新聞社の協力を得て実施するとともに、都内のボランティア団体の代表を招聘し、ボランティア会議を開催しました。

1973年(昭和48年)から、新たな実践活動として、世田谷区の身体障害者更生施設(当時の施設種類名)「世田谷更生館」での学習ボランティアが加わりました。さらに、東京善意銀行等からの要請等に応じて、多彩な活動が展開されるようになりました。

ライチウス会が現在、定期的に活動している福祉施設は以下の5施設です。世田谷区の障害者支援施設「友愛園」(「世田谷更生館」と同一法人)、川崎市の児童養護施設「新日本学園」、渋谷区の児童養護施設「福田会」、2017年(平成30年)から活動を開始した世田谷区の児童養護施設「東京育成園」と既出の「至誠学園」です。いづれも主に学習ボランティアとして活動しています。

また、季節的な活動では、山梨県高根町の「あさひ福祉作業所」で実施されている「あさひワークキャンプ」(8月下旬~9月上旬)や東京都世田谷区にある国立成育医療研究センター神経科の患者家族のピア活動として実施されている「親子サマーキャンプ」(8月中旬)へ参加し、交流を深めています。さらに、2007年(平成19年)から交流が始まった横浜市の生活介護事業所「ほっと・館」での活動(不定期)や2009年(平成21年)から交流が始まった川崎市のレスパイトケア「ポトフの会」での活動(月1回、日曜日)などがあり、活動は多岐多彩にわたります。

そして、2020年(令和2年)4月、ライチウス会は創立90周年を迎えます。

 

※一方、ライチウス会OBOG有志は長年にわたり親睦交流を続けていましたが、さらなる相互の信頼親睦とライチウス会の発展振興への協力を目的としてライチウス三田会を設立しました。毎年定期総会を開催し、様々な機会を通じて現役との交流を深めています。2018年(平成30)年7月11日、慶應義塾連合三田会承認団体になりました。

 

資料

【ライチウス会創立者】

中島守信、小山田信、小林良平、吉田辰彦、田名網、柴山関也、萩原英雄、矢野成典、猪狩浩

◆ライチウス会創立当時の集合写真

文連ライチゥス会(Raittius)創立者ウオルサー博士(Walser,T.D.)を囲む創立当時の会員。昭和8年(1933)頃。写真前列中央 ウオルサー、その右 千種義人。

(画像提供:慶應義塾福澤研究センター)

※写真のキャプションは慶應義塾福澤研究センターが所蔵する原文のまま。創立に深く関与したウォルサー氏は創立者として表記されている。

 

【ライチウス会歴代会長】

初 代会長 松野 喜内(予科教授)

第2代会長 千種 義人(経済学部教授)

第3代会長 阪埜 光男(法学部教授)

第4代会長 小野桂之介(大学院経営管理研究科教授)

第5代会長 秋山 豊子(法学部教授)

第6代会長 駒村 康平(経済学部教授)