Monthly Archives: 8月 2020

私にとってのライチウス会

加藤秀明(1978年 工学部卒業)

 

卒後42年、今回の企画を機に私にとってライチウス会はなんであったのか振り返って見ました。

まず、なぜライチに入ったのか。私は1年浪人し大学に入りましたが、それまでの束縛された生活から開放された中での4年間をどう過ごすのか、きっとワクワクしながら華やかな日吉のキャンパスを闊歩していたのではないかと思います。

そのような中、華やかなテニスサークルへの誘惑等あったと思いますが、4年間何か地に足が付いた時間を過ごしたいという思いがあったのと、父が目の不自由な身障者であり、日頃父に感謝・いたわりを直接表現できない分、同じような障害を持つ方へ奉仕したいという思いがライチウス会の部室へ足を向かわせたのだと思います。

入部後の活動は身体障害者の就労支援事業を行っている世田谷更生館での若い入所者の方に、就労後マンツーマンで勉強を教えるというものでした。週1回の活動ではありましたが、4年間はあっという間に過ぎて行きました。

私は在学中、サークル活動に熱心に取り組んでいた訳でもなく、卒後も特段ボランティアに関わることは無かったのですが、サークルのメンバーのボランティアに対する関わり方は色々です。中には卒後、活動施設の職員になった方や、施設を立ち上げた方、また、公務員として福祉関係の仕事に関与する方や一般企業に勤めながら手話等の私的な活動をされている方等々様々です。

そのように活動を積極的に行っていた訳ではない私でしたが、あるきっかけからライチウス三田会の運営をサポートする立場となり、長い年月を過ごしてまいりました。そこでは、先輩や後輩と会する機会が多々あり、刺激を受けることも多く、自分の世界を広げる貴重な場があるのかと思います。一般的には卒後、大学時代の友人と顔を合わせる機会は徐々に減ってくる方が多いのではないかと思いますが、このような場があることは貴重なことかと思う日々です。

私にとってのライチ

世羅芳昭 (1977年 文学部卒業)

 

私は3年になって活動が怠慢になり、後輩の顔もロクに覚えず、卒業後わずかな人た

ちとしか連絡を取らず、総会にはほとんど参加せず。もうライチは自分の中で終わった

と、思い込んでいました。                           

                     

 一昨々年同期が亡くなり、「故人と語る会」への参加をきっかけに、思いもよらず三田会幹事会に加わることになりました。先輩・後輩・学生さん・同期。現役時代に出会うことができなかった、年の離れた皆さんとも、旧知の仲のように、自然体で、楽しくお会いしています。

 

 仲間は素晴しいです。長年の空白は無関係。今、お仕事やご家庭の事情などで忙しく

、ライチから離れていらっしゃる皆さんも、戻ることは簡単です。OG OB 全員=三田会

員です。敷居が高かった私でも、皆さん笑顔で迎えてくれました。       

     

 機会はいつでも、どこにでも。          

             

 懐かしい顔、顔、顔があなたを待っていますよ。                      

 

                               

 

貴い四年間

 

木村慈子(1971年 文学部卒業)

 

大学に入って、一年の時過ごした日吉のキャンパスは、自由と活気に満ちていました。 そんな中、私は地味なサークルを選びました。 “ライチウス”との出会いです。 はじめの頃は至誠学園の門をくぐるのに、敷居が高いな、と感じたものでしたが、児童と一対一で向き合う勉強会は大きな責任を負うだけにやりがいのある活動でした。

 

二年で三田に来てみると、「ベトナム戦争反対」だとか「沖縄を返せ」などと書かれた看板が構内のあちこちに立っていました。 それを他人事のように見ていました。

学園では、季節ごとの行事に泊まり込みでお手伝いをするのが楽しくてしかたありませんでした。 大きなお台所の大きな釜で炊けたご飯の何と美味しかったこと! “お母さん”や“お姉さん”それから子供達から沢山のことを学びました。

 

担当学年の三年になる頃、学校では医学部の米軍資金導入という問題が発覚しました。 医学部の研究に米軍からの資金が流れている・・・それって、私たちがベトナム戦争に加担しているってことなんだろうか? 枯葉剤の開発に果たして医学部がかかわっていたのかどうか・・・・その真実は謎のままです。 ただ真面目に問題を考えていた人たちが学生運動推進派となって離れていきました。

サークルのメンバーがばらばらになって、私自身は何とかそこに留まるのが精一杯でした。

 

先輩たちから受け継いだライチの伝統と遺産を次の世代へと引き渡せなかったらどうしよう・・・?

それは大丈夫でした! 後輩たちはしっかりと道を広げ、歩を進めています。 

このバトンリレーが90年も繋がっていること、それから未来へ・・・・誇らしく思います。

懐かしいライチウス 

                        宇都宮良治 (昭和32年卒業)

 

ライチウス会には昭和29年から32年までの3年間在籍した。

当時のライチウス会は、興味を同じくする会員が集まって活発に活動していた。

三田の演説館で、サルトルの「出口なし」が上演され、そのうまさに驚いた。

「会誌」も発行され粗末なガリ版刷りだが、特集で「学生と恋愛」(座談会)、「ワークキャンプをどう思う」(アンケートより)」や、人生論、小説、劇評、音楽評論と多彩で、レベルが高かった。コーラスグループもあった。

 

しかし、ライチウスの中心的活動はワークキャンプで、私も力を注いだ。

至誠学舎へ日曜日に行き、子供に勉強を教える勉強組とグランドなどを整備する土木組とに別れたが、私は終止「土木組」。そのうち子供たちに「人形劇」を見せることになったが、経験が無い者ばかりの集まりだから開演直前までドタバタの連続。それでも、子供たちは喜んでくれ、至誠学舎の人が人形劇のセットを譲ってくれと言われた。その後、後輩たちが「影絵」を創作し、素晴らしい出来栄えで子供たちの人気をさらに高めた。

 

ワークキャンプと同じ気持ちで「北海道の冷害を支援する街頭募金」をJR有楽町駅と品川駅でやり、男女2組が一日じゅう声を張り上げて10万円近く集めた。その頃、慶応の学生が街頭募金をするのがめずらしく、予想外の成果だった。退職してから、所属する財団で2回、母校の高校で1回、ボランティアで募金をやったが苦しい時には当時のことを思いだして頑張った。

 

ライチウスの同期とは今も交流が続く。有志やご夫妻で私の居る松山を訪ねてくれたのが嬉しかった。

至誠学舎での土木作業の様子

写真(1)至誠学舎での「土木作業」(右端が筆者) 

 

当時のライチウス会誌

写真(2)ライチウス会誌

 

軽井沢・興望館の合宿でフォークダンスをしている当時の学生たち

写真(3)軽井沢・興望館の合宿でフォークダンス

 

軽井沢・興望館の合宿でサイクリングを楽しむ当時の学生たち

写真(4)同=サイクリング

心に残る言葉 「信頼という名のバトン」

 

 餘吾徳造(1975年法学部法律学科卒業)

 

 日々の生活の中で、心に残る言葉に出会うことがあります。

2019年11月に開催されたライチウス会と三田会の合同勉強会での半田理恵子さん(1976年卒)の言葉「信頼という名のバトン」もその一つです。

当日は杉並児童相談所長の坂井隆之君(1986年卒)の基調講演をもとに子供たちを取り巻く諸問題やライチウス会の役割等について話し合いました。

 

90周年の記念誌を作りながら、なぜライチウス会が90年も続いてきたか、なんとなくぼんやりした気持でいました。

半田さんは、大学を卒業し子供たちや障がいのある方々と別れなくてはならない時に、ライチウス会が90周年にわたり続いてきた真の意味を知ると言います。

そのキーワードが「信頼という名のバトン」でした。

 

そして、90周年記念誌の編集後記ではこう語ります。

「そう、私たちは子供たちや障がいのある方々との信頼を守り続けるために

信頼という名のバトンを後輩に託すことでライチウス会を卒業できるのです」

さらに続けて、

「このリレーに、もしゴールがあるとすれば、そこにはどのような社会が

あるのでしょうか ゴールはまだまだ見えません」

ライチウス会が必要とされない社会を願いながらも、本会の役割に終わりがないことを予見しています。

 

駒村康平会長は、最近の著書「社会のしんがり」の中で、半田さんの言う「信頼という名のバトン」が間違いなく引き継がれてきたことを紹介しています。

 

現在私は大学でライチウス会という1930年に発足した学生ボランティアサークルの顧問を引き受けています。  (中略)  彼らは、まったく境遇の異なる子どもたちの人生を知ることにより、異なる人生への想像、共感し、寄り添うことの重要性を学び、人間として成長しています。

どうしてそう言い切れることができるのでしょうか。

それはこのライチウス会のOB・OG会が毎年あり、最年長の方では90歳を超えていますが、そこで話をするOB・OGの社会への情熱に触れ、若いときに感じたことを大切にし、まさにさまざまな形で「社会のしんがり」を担っていることを知ることができるからです。  (引用 p22-p23)


 
*「社会のしんがり」(新泉社2800円+税)  駒村会長主催の寄付講座の講演者で地域の困窮と闘う人たち11人を「社会のしんがり」として紹介しています。

ライチウス会を卒業して45年が経った今、「信頼という名のバトン」を引き継いだ一人として、「社会のしんがり」の一部でも担えればと思っています。

 

2020年4月

1975年法学部法律学科卒 餘吾徳造

「信頼という名のバトン」

半田理恵子(1971年 文学部卒業)

 1972年秋、日吉キャンパスには学費値上げ反対を掲げる看板があちこちに立ち始め、全学ストライキを決行するか否かの学生大会が記念館で開かれました。
通常の授業はすでに無く、塾生各々が生活の選択の自己決定を迫られていた時代でした。「もう間に合わない。私、学園に行きますね。」ライチの仲間達と共に出席していた私は、自身の意向を仲間に託し立川に向かいました。
私の心を動かした思い、それは、「私との勉強会を楽しみに待っている子供たちとの約束を守らなければいけない、幾度も裏切られた体験を持つであろう子供たちに大学の複雑な事情を説明することなどできない、ライチのお姉さんというだけで私を受け入れてくれた子供たちそして職員の皆さんではないか」
この時、私は改めて、ボランティア活動を継続していく責任と失ってはいけない信頼の重さを痛感したのでした。
しかし、多くの仲間が経験したように、この活動も大学卒業という必然によって、終わりを遂げるのです。築き上げたであろう子供達や障がいある方々との信頼にこうして終止符を打ちながらも、卒業する私達を笑顔で送って下さった皆さんでした。
そして、私達はこの時初めて学ぶのかもしれません。ライチウス会が90年間にも及ぶ歴史を積み上げてきた真の意味を。

そう、私達は子供達や障がいある方々との信頼を守り続けるために「信頼という名のバトン」を後輩に託すことで、ライチウス会から卒業できるのです。

バトンリレーは90年の歳月を経ました。
このリレーに、もしゴールがあるとすれば、そこにはどのような社会の姿があるのでしょうか。

ゴールはまだまだ見えません。